昭和41年11月26日 夜の御理解
今晩の御祈念に、今日青年会の方達が信心実習会をいたしました。大変色々とおかげ頂いて帰ってきたという事のお礼を申させて頂いておりましたら、今でもあるですね、あのたばこであさひ、朝日、朝日という。私達の青年時代はあれが大変人気のあったとこでしたけれど、今はないですね。朝日というタバコがある、あれを御心眼に頂いた。
タバコというのは結局、例えば一服するとこう言うですね。例えばまさしくその青年会の信心実習会ていうのを、信心言うならば同じ年代の、しかも信心の勢の揃うた、いわば好きな者同士が言うなら集まってあの、温泉に行ったり山に登ったりするのでございますから、やはりこれは憩いであります、ね。一月なら一月の中のひとつの憩いである。
そういう中にもやはりその信心実習をして、本当に色々椛目で、というか合楽的なおかげを頂きたい、竹内君からお届けがあったんですけれどもね。その、もうすべてがそうでなからなきゃならない。それは風呂入っていてもコタツに入っていても、テレビを見とっても、やはり信心実習なんです。と言うてその、金光様、金光様という、言いながらお風呂に入りよるのでもなからなければ、金光様金光様と言うてコタツに入るんじゃない。その中にね、やはりあの、朝日というのはです、徳する、けれども朝日である。
いわゆる生き生きした心だとこう言うんですね。朝の朝日がこう上るその清清しさとか生き生きしたといったような、そういうものがね、いつもなからなければいけない。そこにいつも何処ででも神様を頂く事ができる、ね。ですから、お風呂入っとって、はあ極楽、極楽、長うなって入っとっても、さあ上がって来るときには「 」させてもらわなければおられんのである、ね。
いわば病気でも、ジッとこう「 」つかって気分が良いように、せにゃおられんのである。コタツでもはいり散らかすじゃない。本当こう、また座布団も敷き直したり、一緒に散らかっておるものもちょっとこう、片付けてさせなければおられんのです。ね、テレビ見た後、もうそのイスがかけっぱなしではなくて、キチッとこう整然と、次にまた掛ける人がまたいつ「 」てもまた整然としとるという事は、そういう心掛けが必要という事はね、何事にも信心になるという事はそういう事だと思う。
だからそういう事がね、あの、キチッとした性格の人と、ルーズな性格がありますけれども、それはどっちでも構わん。ね、だからね、性分でそうすると言うたら「 」。心がけを生き生きとしてコタツに入って一服しておるということ。けれども、そのやはり、立つ時にはそれこそ木の切りかぶに腰を下ろしても、立つ時には礼を言う心持がです、そのまま後を片付けてくる整然としたそういう事をですね、言うんじゃなかろうかとこう思いますね。
号令もかけておいたら、今日青年の方達が信心実習、言うならば、まあレクレーションですね今の言葉で言えば。言うならば、その物見雄山な、けれども、物見雄山の中にでも神様の生き生きとした働きを感じながら「 」頂いておる。そこに信心実証の値打ちがあるんだけれども、日々の、ならその風呂も入ろうが、コタツに入っておろうが、テレビを見ておろうが、ね、そういうものでなからなければならない、ね。そこにいつも何と言うですかね、それこそ朝日の出を拝むようなですかね、おかげを頂かせてもらう。
という、朝日に手を合わせる人はあるけれども、夕陽に手を合わせる人がないと、こう言う、ね。御神前に出ておる時だけは信心になっておりますけれども、御神前を離れたらもう信心ではないと言うのは同じこと。ね、だから夕陽にも手が合わせられる私共にならきゃいけんということ、ね。それを朝日というタバコで頂いておる。今日は「 」教会の大祭でしたが、だんだん、だんだんお祭が、その最後になるほど立派なお祭りだね、お参りも沢山ありました。
そのそれが、今日「いっちょうだ」の田中先生のご開帳でしたが、もうあんな田舎だけれども、お百姓さんが一人の信者もない。ところが宮ノ陣にはですね、それこそ一人の商売人もないちいうごたる感じで皆、素朴なお百姓さんばっかり。もうお参りしてくる皆、三升、五升ち言うてからその、お米、お供えが皆する。それでちゃお広前いっぱいでした。
お米なんかでも15表からお供えになっとった。今までの御大祭ではまあ一番、もうそれなんかでもですね見事なお米。あちらの先生が今年、82になられるそうですけれどね、もうとっとつしてあの、ご挨拶されましたが、もうこの頃ちゅうぶでですね、その手足も叶わんごたるあるけれども、ね、お腹の中はどうもないから、ね、「口をふいて叶わんから?」からもう本当に有り難いち言うてからその事をしっかり、だからこげんしとる時は御本部に参拝する、小倉にもお礼参りをさせてもらうと。
小倉で死んでも、もう私は、本部に参って本部で死んでも私はもう有り難いと思う。けれども本当に最後の最後までこうやって御用に使うて頂く事が有り難いとこう言うておられるんですね、「 」。そういう御用に使うて頂いておる、それは例え一服しておるであろうがどのような場合であろうが、勉強しておる時であろうが同じなんだという事です。
本当にあの、ああいう御茶の先生がダーっとあって非常にこう、何ですか、お百姓さんたちがお参りしてから、あの、非常にこうひたひたっとあるですね、本当そこの教会、教会のその、スタイルというものがあるですね。そこの先生にやはり雰囲気、持っておる雰囲気がそのままお広前に現れておる。本当にに20いくつで「ごきょう?」を通されて、何十年間ね、このお道ただ一筋に働かれて、ご普請が出けておりますが、立派なご普請です。今日はまた私、本当にあの、御大祭よりも有り難いと思うた事は、あのお孫さんがね、舞を舞われ、息子さん、幼稚園にまだ行かれないぐらいの、まあ五つぐらいでしょうか。
それが装束を着て綺麗に出来とる、こんなに小さいとです。それがですね、あの君が代を舞われ、いちばんやすいの。ちょっと途中で忘れてござるごたるもん、お母さんがこうこうして、もうそりゃあですね、もうこう出てこられるとこから拍手喝采。もう「 」あんまり拍手喝采するもんだから「忘れなさった」ごたる風ですもん。それでもう、その可愛かった、可愛かったね。もう本当に神様のやはりごひれいだとこう思う。もうとにかくこの会場一杯に集まった時はそれこそ拍手せずにはおれないということなの。
ね、もう本当にそこの雰囲気も、御大祭の盛り上がりが何とも言えん雰囲気でした。そういう意味でね、私はもう信心させて頂く者として、また特に教会師弟といったようなものは、そういうその中、小さいまだ5つか6つの中からでも、神様の御用をさせてもらうというような物が身について行かなければいけない。今晩私は、幸い、今日は皆土居の共励会で皆行っております。あの、「りゅうじ君?」もおるし光昭君もおるから、今からもう一つ御祈念のけいこをしてもらおうと思いよる。
「どくじせろっちても?」まちっとですね、本気の御祈念が出来にゃいかんです。大払いももう、いやあげな優しか先生の中からどうしてあげな声が出るじゃろうかち言うごたるですね。それはまあ、あの、「みよし?」あたりが、ああいうおばあちゃんでようようしとりなさるけれども、祝詞上げられるとだけはもう堂々たる声を張り上げられますよね。本当にこれはやっぱ一つの度胸がいる。
ね、ですからもう、天津祝詞一巻でもいい、天地書附でもいい、もう拝詞でもいい、 、本当に心の底からですね上げられるけいこ。例えば、歌舞伎役者の子供達がもう、4つ5つになると初舞台に上がる。そしてその、それこそ満場の拍手を受けるくらいな芸を身に付けていく。金光様の信心を頂いておるところの師弟がですね、やはりもう学校に行く時には天津祝詞ぐらいもう家の者が上げますというぐらいにならにゃやっぱダメ。ね、教会師弟と言うなら、もう言うごとなったら、いわば御祈念の先唱ぐらい出来るぐらいなですね、私はけいこが成されてこそ本当の信心がね、身についていく基礎という物が出来る。
そういう事によって今日私が、その皆さんに分かってもらおうとするその、「懇意?」である。ね、勉強しておろうが、どこに遊びに行っておろうが、ね、風呂入っておろうがです、その中にやはり信心が生き生きとしておらなければいけない。いわゆる今日のあの、物見雄山が普通であろうその青年会の方達の、がやっぱり立派な信心実習で神様の働きを見たり感じたりして帰って来ておるように、日々の中にでもそれを感じられなきゃいけない。そんなら風呂の中だって、ね、コタツの中だって感じれるものでなからなければいけない。
と言うて、はあ極楽、極楽と言うて長うなっちゃならんと言うのじゃない、そういう中にもある。だからそれが出けてるか出けてないかという事がです、ね。例えば私共が立つ時にはもうコタツに入っても必ずキチッとこう、うあれは性格じゃないです。そうしなければおれんとです。私がお風呂に入る時でも必、もzうそれこそあの、きれいに後に何か残っとる時には、まあ、あんまり「 」してしませんけれども、まあ私が一人で入る時には必ず、もうそしてちょっと時間があるというなら電気を消して、そしてあの、フタをして私は帰る。
でなかったらそこが、いわゆる拝んで上がられないです。こう散らかしてまわる所がどうして拝まれますか。拝むと言うても今言うように拍手して合掌するという意味じゃないです。心の中に木の切りかぶに腰を下ろしても立つ時には礼を言う心持が生まれてこない。ね、その心持がす、どういうような所にでもある所に間違いのないおかげを頂けれるという事なんですよね、どうぞ。